煌き

小さい頃は、誰かが死ぬと、悲しいより先に怖いという感情で埋め尽くされていました。

中学に入ってすぐに祖父が亡くなったとき、同居していたし、葬儀は自宅で行ったので、遺体が我が家に運ばれてきました。
朝方、家の前に車が止まる音がして、戻ってきたのが分かったのだけど、怖くて怖くて寝たふりをしていました。

その後、伯母や叔父が亡くなって、先日叔母もなくなって、大人になるにつれ、人の死に対して怖いという思いがなくなりました。
(母は小学校に入る前に父親を亡くしているのですが、母も実の父だけど、その時はただ怖かったと言っていました。)

20代前半の頃、友達が自殺しました。
その時は、怖いとも悲しいともどちらともいえない感情がありました。

彼女は数冊の本だけを残して、自分のものをほとんど処分して亡くなりました。
悲しいというか、何か理不尽で、納得できなくて、だんだん仲間で集まらなくなってたこととかが悔やまれて、自分も加担したような気持にもなって、寂しいのか悲しいのか申し訳ないのか怖いのか色々な感情だったんだけど、でも蓋をしてしまったような感じで、あまりその感情を自分で認めないようにしてたというか・・・・。
友達と自分との距離感というのはまったく自分でわからなくなって、悲しんでいいものなのか自信がなかったのです。
身内と友達数人のみで葬儀が行われて、斎場にも一緒に行ったのだけど、かんだかフワフワした感じでした。

結局、自分のその時の気持は未だわからず。
友達の気持だって、全然どうだったのか分からないけれど。
きっと彼女は生きるのがしんどくて、どう生きたらいいのか分からなくて、でも死んだのは彼女なりの訴えだったり、あきらめだったり、希望(絶望を終わらすという)だったのかなと思います。

ま、なんでそんな事を急に思い出したのかというと、
前の土曜日の早朝に、京都にいる友人より(友人の)妹が自殺したとの連絡がありました。

とてもショッキングだったんだけど、
私は直接妹さんを知らないし、
でも私の友人の大切な妹だったのは確かで、友人のことを思うと悲しい気持になりました。

友人のメールには
「絶世の美女だったので、生きにくかったのです。苦痛から解放されてよかった。」
と書いてありました。

本心はきっとそれでも生きていて欲しかったんだろうと思います。
でも、友人がそう言うのも納得できるところもあり、壮絶な出来事がそれまでにあったのです。

命は長ければいいわけでもなく、生き方だと私は思っているし。
生き地獄ならば、いっそ死んでしまいたいと思う気持を否定はできません。
私には想像もできないようなことで苦しんでいる人は沢山いるんでしょうね。

でも身内にしたら1日でも1秒でも長く生きて欲しいと思うのだけどね。
きっと周りの人はどうにか命を繋ぎとめようとしたのにね。

自殺はダメだと言うけれど、そうなんだけど、なんとも言えないなーと思います。

初七日法要が終わり、美しい妹さんの遺影の写真と
「今このときに煌めくことが生きているということなんだね。」というメールが。
本当に考えされられます。

世界の死因の第1位は餓死で、自殺は、自殺という選択肢がある先進国のみに起こることです。
そういう恵まれた悲しい国なんだなー。
なんだかホントにもー。

死ぬ気になればなんでもできる。
だけど、それが大変なんですね。

友達の気持が癒えるといいなーと思います。
そして、やっぱりみんな生きてて欲しいなぁと思います。


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