直木賞作家の坂東眞砂子さんをご存知ですか?
今年亡くなられたそうです。
私が彼女を知ったのは、2006年に「日経新聞」のエッセイ欄に掲載された文章でした。
「子猫殺し」というタイトルのそのエッセイは衝撃的な内容で、なんとも後味の悪いものでした。(このポストの最後に引用を掲載しています。 )そのエッセイの内容は覚えていたものの、作家さんの名前はすっかり忘れていました。
その後、2009年に『愛を笑いとばす女たち』という本を読みました。自分の頭の固さ、発想の狭さを思い知る1冊で、今でもよく覚えています。当時の自分のブログに感想を書いています。
そしてその作者が、坂東眞砂子さんだったわけです。
印象に残った本だったのに、猫殺しの人だったとは・・・と、なんだかモヤモヤしたままだったのですが、今年亡くなられた事で東野圭吾さんが追悼分を書いていらっしゃるのを読みました。
つっこみ所も多々あるのですが、真実はどうであれ、これを読んで分からなくもないなーと思った部分もあるのです。
人間が気に入るような種類の動物を産ませ、販売し、子供のうちに売れなければ処分する。または、人が食べるために産ませ、狭い所で成長を促進させ、見えない所で肉の固まりになる動物達。なにが残虐なのかわからないなーと思うのです。
食べるために殺すのであれば、それはありがたく「いただく」という気持ちになりたい。動物を絞めるという事を、身を持って知らなければならないと最近思っています。
実は私たちは本当は何を食べているのか分かってない事が多いですよね。
ファーストフードのお肉は何の肉なのか??
ちょっと話しは逸れていますが・・・人は食べないと生きていけないし、食べる事が一番の娯楽!!
自分の体に入るもの、大切な人の体に入るもの、できるだけ幸せな人生(動物生??)を送った動物や植物の大切な命を、感謝しながら食べたいな〜と思うのでした。
お肉大好き!!!!
2006年8月18日付の「日経新聞」夕刊 エッセイ欄「プロムナード」より引用
「子猫殺し」 坂東眞砂子
こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。そんなこと承知で打ち明けるが、私は子猫を殺している。
家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生れ落ちるや、そこに放り投げるのである。タヒチ島の私の住んでいるあたりは、人家はまばらだ。草ぼうぼうの空地や山林が広がり、そこでは野良猫、野良犬、野鼠などの死骸がころころしている。子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。自然に還るだけだ。
子猫殺しを犯すに至ったのは、いろいろと考えた結果だ。
私は猫を三匹飼っている。みんな雌だ。雄もいたが、家に居つかず、近所を徘徊して、やがていなくなった。残る三匹は、どれも赤ん坊の頃から育ててきた。当然、成長すると、盛りがついて、子を産む。タヒチでは野良猫はわんさかいる。これは犬も同様だが、血統書付きの犬猫ででもないと、もらってくれるところなんかない。
避妊手術を、まず考えた。しかし、どうも決心がつかない。獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。
猫は幸せさ、うちの猫には愛情をもって接している。猫もそれに応えてくれる、という人もいるだろう。だが私は、猫が飼い主に甘える根元には、餌をもらえるからということがあると思う。生きるための手段だ。もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう。
飼い猫に避妊手術を施すことは、飼い主の責任だといわれている。しかし、それは飼い主の都合でもある。子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。だから社会的責任として、育てられない子猫は、最初から生まないように手術する。私は、これに異を唱えるものではない。
ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。そして、この差の間には、親猫にとっての「生」の経験の有無、子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。どっちがいいとか、悪いとか、いえるものではない。
愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。人は神ではない。他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。どこかで矛盾や不合理が生じてくる。
人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。生まれた子を殺す権利もない。それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。
私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。(作家)